寂しさの「源」

ある方のブログで、身体に関するコンプレックスを克服したという話があったが、その方は手術をしてコンプレックスを取り去ったと書いていた。

一般的にはそうなんだよなあと、あらためて感じた。

私の感覚だと、身体的な問題をコンプレックスと感じているのは自分の知覚が自我によってゆがんでいるからであり、つまり、真のコンプレックスは心の側にある、などと主張してしまうから、もしそんなことを公言したら、その方はもちろん、多くの人が私のところから去って行くだろう。

正直、ものすごく寂しい。

ここで、私の学びとしては、そうした人がいる、つまり、コンプレックスを感じる対象の側をどうこうすることに終始して、真のコンプレックスのありかには決して目を向けない、という方針を貫いている人がいる、という知覚自体を赦すことになるのだろう。

それはまた、真の知覚を育むことになるのだろうけど、しかし、正直もう参っている。

追記。投稿してみて気がついたが、私もまた、赦す必要性を対象の側においていた、ということに気がついた。

つまり、そうした人を赦す、のではなく、そうした人に私が無意識に投影している何か、を、直視する必要があるわけであり、赦す必要があるのはそこである。

一つの終わりと新しい始まり

すれ違う人がみな、かつて関わりがあった人のような気がして、まるで、生きながらにして走馬灯を味わっているかのよう。

秋の街はうら寂しく、抱きしめたくなるほどの愛おしさだった。

写真を撮っている人がいて、また別の人も撮りはじめ、私も便乗し、そして一期一会で会釈して去る。

そのようにして、かつて私であったものと別れた。

すべてが、ある一つのサイクルの完結を示していた。

だが、さらにその奥から、存在の根底から、巨大な闇が隙をうかがっているのを感じる。

それは、隙あらばこちらの息の根を止めようと、虎視眈々としている。

ただ、もしそれに飲まれたとしても、それが「道」だったのだろう、という感じで、それはただ自分の根底にある恐怖であり、私が作り出したものであり、それが神から私を「護って」いたものだった。

ただそれは染みわたり、そしてその無性(むせい)が次第に感じられる。

無とは単に「何もない」ということであり、そこには依然として、ただ光があるのみである。

「外部」へ

食事をしていたら、ある昔の音楽がかかったが、その音楽にまつわる自分の記憶がいろいろ思い出された。

しかし、自分ではわざわざ聴こうとするほどの思い入れがあるわけではない曲なので、ネットで探して聴こうともしなかったし、そもそも、すっかり忘れていた。

つまり、エコーチェンバーと化したネット空間においては、まず出会うことのなかった曲である。

しかし、飲食店のように、自分の選択とは関係のない曲が流れるという環境のおかげで、いわば自分の「外部」と、ひととき接触することができた。

こうした環境は、ネットが一般的になる前は普通だったのだが、今では、逆に新鮮な感じもある。

そしてこのように、自分の「外部」へと、一歩足を踏み出すところに、真実は常にそこにあったという、単純な事実が開かれる。