往古の憎悪から現在の愛への一例

(註。この記事は、リニア事業自体の是非を論じるものではありません)

リニア新幹線の建設に難色を示していたとされる静岡県の川勝知事が、ご自身は一貫してリニア推進の立場だと表明したそうです。

https://nordot.app/905275073436106752?c=296807156262126689

私は新聞で読みましたが、こうしたディテールに関しては、ネット上の記事では有料部分になっているようでした。

以下は、この記事に書かれていることが本当だとしての「個人の感想」です。

川勝知事はこれまで、例えば大井川水系の水問題などで、リニア建設には反対の立場だとされてきました。

しかし実は、知事はリニア自体に関しては、一貫して推進の立場だったそうです。

ということは、リニア建設には賛成しているからこそ、問題点はきっちりはっきりと明らかにしなければならない、という立場から、一貫して水の問題に言及していた、ということなのでしょう。

ですが、表面的な言動のみを捉えて、あたかも知事はリニア建設には反対しているかのように思われていたわけです。

もう少し厳密に言うと、つまり、これまでは、建設側と知事側は、推進と反対で、互いに相容れない立場だという前提の元に話し合いがなされていました。

ですから、知事の積極的な発言は、おそらくは、リニア建設工事に対する「攻撃」だと受け取られてきていたのでしょう。

ですが実は、知事もまた基本はリニア推進だったのであり、つまり、基本的な思いの方向は、実は一致していた、ということだったわけです。

そのことを、知事自身がはっきりと表明したことで、おそらくは大きく流れが変わりました。

テキストに書かれている、「地上における最も神聖な場所とは、往古の憎悪が現在の愛となった場所である」(T-26.IX.6:1)というのは、つまり、具体的には例えばこのような形を取って現れる、ということです。

自他が互いに相容れず、憎しみを募らせていた、まさにその場所に置いて、実は自他共に思いは一つであった、ということが「発覚」する現場のことなわけです。

これはもちろん、規模などには左右されませんから、例えば、毒親との関係が癒やされることもまた、今回の知事の発言と全く同じことです。

奇跡講座が教えているのは、例えばこういうことではないかというのが、「個人の感想」です。

こうしたことを、なぜこの地上で学ぶ必要があるかというと、この地上で学んだことは、霊界においても「使える」ツールになるからです。

しかし、霊界においては、新しいツールを持つこと自体が、どうも不可能なのか、あるいはとてつもなく困難なことのようです。

ですから、地上においてこうしたことを学ぶことは、一見すると無駄で回り道のようですが、実は、神の元に帰るためにとても大切なことをちゃんと学んでいるわけです。

こうしたことを、今までは否定的なニュアンスでしか捉えられなかったので、これらは「苦行」あるいは自己否定の修行のようなこととして捉えられていました。

つまり、本当は自分はこうしたいという気持ちを、あえてねじ曲げることが「高い」ことであるかのような捉え方です。

これは完全に間違っています。

はい、ここからは毒舌コーナーです(笑)。

まあ、ですから、「世界は幻想」とただ言い張るにとどまることは、例えてみれば、教室の中にいて、「私はすべてを知っているのだから学ぶ必要などないのだ! ここから出させろ!」とわめいているようなものなので、ワプニック博士は、「あのね、あなたがここにいるということは、あなたは学ぶ必要を感じたからなんだよ。だから、薪を割り、水を汲もう」とたしなめ続けていた、ということなのかもしれません(笑)。

※「薪を割り、水を汲む」に関するワプニック博士の講話は、以下をご参照ください。

私から蛇足(笑)しますと、これは、形としての行為のことではなく、心の姿勢として、すべきことをおろそかにしない、つまり、例外なくすべてを赦しの機会とする、という姿勢のことであり、行為の形としては、もしかすると、ただずっと仕事や家事などををさぼっているだけとか、ただ遊びまくっているだけのようにしか見えない、ということもあるかもしれません(笑)。

ですから、霊的には、何かと何かの対立が、まさに現在において昇華され、癒やされるためにこそ、こうした状況が生じていたということであり、そしてこれは、個人としての知事や建設工事の方々がどうであるかではなく、常に普遍的な心が、このように個別的な形を取って現れているということなので、個別的か普遍的かというのは、実は何ら矛盾していず、すべては個別的であると同時に普遍的でもあります。

だからこそ、ただ自分のすることに取り組むことが、実は普遍的な何かをも同時に癒やしたり解決したりしている、ということであり、それは何もたいそうなことではなく、マニュアルの表現を借りると、「エレベーターの中の他人同士に見える二人が互いに微笑みかける」(M-3.2:5)こともまた、実は、神からの分離は起きていないことを、互いに教え合っていることだというわけです。

そしてこれが、出来事はすべてフラクタルだということであり、つまりこのように、自分は常に、神からの分離を再現するか、神からの分離は起きていないことを実証するか、二つに一つの選択を求められているというのは、例えばこういうことです。

まあしかし、私もまた、これをしろと言われると、多大な抵抗が出るわけですが(笑)。

まともに考えたら、こんなこと、窮屈すぎてやってられませんからね(笑)。

つまり、そのぐらい人は、分離を維持していたいんだということです。

無意識の罪悪感は侮れないというのは、例えばこうしたところにも端的に表れています。

ですから、このように、実践の現場は、すでに「今ここ」であり、常に「今ここ」なので、奇跡講座の学習と実践は、もう、目の前のスマホとの向き合い方からして、すでに実践の只中ですし、また、自分が何者であるか、自分は何が真実だと信じているか、などを、絶えず宇宙に教え続けている、というぐらいな訳です(笑)。

ですから、実践するかしないかというよりも、実はずっと実践していたんだけど、ただそのことに完全に無自覚になっていたために、あたかも、自我による実践をしていたかのようなことになっていた、ということなのかもしれません。

気がつかないと選び直すことができませんし、自覚的になり、選択肢が明確になればなるほど、抵抗や罪悪感などもいよいよごまかしようがなくはっきりと自覚されてきます。

だからこそ、こうしたことをいきなり自覚すると、たちたち精神状態がおかしくなりかねないので、実践は無理せず少しずつ、ということなわけです。

まあ、抵抗なんて、例えばこのように、「叩けばほこりが出る」というぐらい、ボロボロ出るものなので(笑)。

もう、垢すり状態ですから(笑)。

世界とは垢すりサロンなのかもしれません(笑)。

それは冗談ですが、だからこそ、抵抗しまくりの自分に対して、裁かずに優しく接することが、とても大切になってきます。

それは、意外かもしれませんが、抵抗があってもいいんだ、ということです。

神は、神の愛に抵抗している人を裁くわけではありませんから。

エレベーターの中で仏頂面をしているだけで天罰が下るようでは、冗談抜きで、生きることが物理的に不可能になります(経験者は語る(笑))。

つまり、天罰という概念もまた、自我によるねつ造だったというわけであり、ただ、天罰はリアルだという信念の元では、実際に天罰が下ったかのような知覚が生じることはあるかもしれない、ということです。

そうしたことが、例えばレッスン14、「神は意味のない世界を創造しなかった」というレッスンなどで取り扱われていることです。

さて、いずれ、少しずつ抵抗が薄れていったとき、ごく自然に自己が開花しますから、無理に花開かせようと時を焦る必要はない、ということです。

そういう昔話がありましたよね、「早く芽を出せ、柿の種」とかいう。

エレベーターの中で上のようなことができなかったとしても、それでいいというわけです。

それができない自分にやましさを感じる理由は、本当は自分はそうしたいからであり、だからこそ、今はそれができない自分というのが、ふがいないし、また、やましくも感じるという、ただそれだけのことなので、それがわかれば、とりあえず今はそれでいいというわけです。

極端に言うと、行為の形として、エレベーターの中で微笑むかどうかすらも、実は問題ではない、ということです。

大切なのは、原因が訂正された結果として、自然に笑みがこぼれることであり、微笑むかどうかという結果自体が問題なのではありません。

もちろんですが、「本当は自分はエレベーターの中で見知らぬ人と微笑みを交わしたいんです」とか言われて、確かにそうだとうなずくことができる人は、すでに実質上は癒やされているのであり、逆に、「そんなことはありません。エレベーターの中ではできる限り誰とも触れ合わずにやり過ごしたいです」と感じるのが普通です。

ですから、これは決して、裁いたり非難したりという意味ではなく、ここからわかることは、私も含めて、人はそれぐらい、分離を分離とも思わずに平気で暮らしている、ということです。

ですから、実践のネタなんて、ほんと事欠きませんよね(笑)。

赦しネタなんて、掃いて捨てるほどどころではありませんね(笑)。

ナウシカに登場するクシャナ姫的に言えば、「今赦さずに、いつ赦すのか」みたいな(笑)。

もう、こんなとんでもないことを言う「ふう」というやつこそ、まずは真っ先に赦さなきゃ、むしゃくしゃしてきてやってられませんよね(笑)。

奇跡講座の教えの「途方もなさ」は、その壮大さは別として、実践面をものすごく平易に表現すると、例えばこうしたことです。

自我的には、もう、「逃げも隠れもできません」というぐらいに、情け容赦なく自分が追い詰められていくように感じられたりもしてきますが、自分がそう感じるのは、自分はそんなにも自我と一体化しているからであり、つまり、この感覚は、実は自我の気持ちを自分が代わりに感じているのだ、というわけです。

ああ、思いっきり脱線してしまった。。。

とりあえず、現場からは以上です。

奇跡講座と「water!」

本屋で、英語関係の本を見ていた。

学校の英文法をやり直すことで英語を理解するという趣旨のものだった。

日本の英語教育は役に立たないと言われていて、実際、英語でコミュニケーションができない日本人は、他の外国人に比べて非常に多いということが問題視されている。

しかし、英文法などの基礎をしっかりと学んでいるという点では、実は、日本人は潜在的には英語の語学力はかなり高いらしい。

その後、クイズで脳トレの本を見たが、こうしたことも、ただ本を見てあれこれ考えるよりも、実際に手を使ったり体を動かしたりして何かをする方が、よほど脳トレになるのではないかという気がする。

なぜ、ただ本を読むだけでは充分な脳トレにならないかというと、言葉などの情報は、そのときそのときのリアルな状況と、実は密接に結びついているからである。

もちろん、純粋に抽象的に考える能力が発達している場合は、必ずしもその限りではないが。

ただ本を読んで知識を吸収するだけでは、それが実際にどういうことなのかはわからない。

だから、英語もまた、リアルな状況の中でのみ、本当の意味で身につくのかもしれない。

そうしたことがぼんやりと思われていたら、ふと、これってもしかして、ヘレン・ケラーが体験したことだろうか、という気がした。

つまり、サリバン先生から、手にポンプで汲んだ水を浴びせられ、そこに加えて手のひらに「water」と書かれたことで、水と「water」とがヘレンの中で結びついた、あの瞬間である。

してみると、もしかすると自分の中で、「愛」ということと、愛のリアリティ(実相、現実)とが、実は結びついていず、それが結びつくことが、意識覚醒なのではないか。

そうしたことが、言葉としてというよりも、何かもっと深い感覚的なところでふっと思われて、そのときに、何か全身がぞくぞくするような感覚に襲われ、出先なのにしばらく泣けて泣けてたまらなかった。

マスクをしていたので他の人にはばれませんでしたが(笑)。

これは、もっと平たく言うと、つまり、「愛」と愛とが結びついていなかったわけです。

それはあたかも、ヘレン・ケラーの中で、「水」と水とが結びつくようなもの、というか、まさにそのものなのではないか。

ネットで調べてみたら、この秋に、サリバン先生とヘレン・ケラーの物語である「奇跡の人」が公演されるらしいですが、私は知りませんでした。

もっとも、これは過去何度も公演されているらしいですが。

ちなみに、「奇跡の人」の元のタイトルは、「The Miracle Worker」であり、奇跡講座を受け取ったヘレン・シャックマンは、当時、とても感銘を受けていたというような話を、ワプニック博士の解説か何かで読んだ記憶があります。

(出所を明らかにするために『天国から離れて』を少し読み返しましたが、当該箇所は発見できませんでした)

そしてこの、「Miracle Worker」とは、実は、ヘレン・ケラーのことではなくサリバン先生のことだった、という説も聞いたことがあります。

ですが実のところ、これは、ヘレン・ケラーとサリバン先生の「神聖な関係」自体が、「miracle worker」、つまり「奇跡をもたらす人・奇跡を行う人」として作用した、ということなのではないかという気がします。

もう一つ、wikiを見ていたら、有名な、ヘレン・ケラーが「water」と叫ぶというシーンは、実は戯曲作家による創作であり、実際には、ケラーは「water」と綴ったのであり、発声できるようになったのはずっと後のことだそうです。

ですから、「愛」と愛とが結びついたときも、実際には、何か叫ぶというようなものではないのかもしれません。

さて、ここからは、毒舌コーナー(笑)です。

『天国から離れて』,p.325にあったんですけどね。

これは、ビルさんが異常心理学について教えていたことに関連しているようですが、イエスさんは、「異常心理学とは、自我の心理学だ」(p.325)と言っています。

これはたぶん、異常心理学とは自我についての心理学である、ということでしょうね。

で、こう書かれています。

「ほとんどの教師たちが、不運にも、その講座(コース)を異常なやり方で教える傾向にあり、学生たちの多くは、彼ら自身の権威の問題のゆえに、顕著な知覚的歪曲をこうむることになりやすい」(p.325)

もちろん、ここで言及されている「講座(コース)」とは、異常心理学についての講座のことではあるんですが、ま、某講座のことも暗示されているように感じるのが、私だけであることを祈ります。

現場からは以上です。