外面性への「着地」

この数週間、パソコンを修理に出していた関係で、あまりネットを見ない生活が続いていましたが、いや、これは快適ですね。

なんというか、いかに今まで私が、ネットの情報空間に気を取られまくっていたかがよくわかりました。

なので、その間に、例えば世界情勢について解説している動画を見ても、なんだか、その解説をしている人が、ただその人の頭の中で展開している話をしゃべっているだけ、という感じがして、そうか、だからこそ、世界で起きていると思われている戦争もまた、単に内面的でバーチャルなことでしかないのか、ということが、なんだか理屈抜きで分かってきました。

つまり、そうした内面性のようなものを万人が共有することにより、実際にもそれが現に起きていることであるかのような事実認識が共有される、という流れがあるわけです。

(もちろん実際には、ことはそう単純ではありません。

例えば戦争に関しては、現地に行けば大変なことが起きているわけですから)

しかしそれは単に、そこから離脱すると決めるだけで自由になる、というぐらいのものですが、人の内面性への取り込まれ度合いは、わかってみると、それはもう半端ではないわけです。

しかしやはり、そこから離脱してこそ、はじめて人は、外面的に生きることができるようになるようです。

ここにはどうやら選択の余地はありません。

そしてそこからならば、ネットの情報も、振り回されずに「有効活用」できるのかもしれません。

さて、それはともかく、そうしているうちに、日常にどんどん気が回るようになり、なんだか日常的なことに充実感が出てきました。

そうすると、戦争などの話は、本当にリアリティがなくなっていき、今の自分の日常性のリアリティが意識の前面に出てきて、それまでも私はずっと意識覚醒に取り組んでいて、確かに、この世界においても自由や解放感を感じていたにもかかわらず、それはまだ、いわば潜在化した状態でのことだったのかもしれない、というぐらいになってきました。

例えば私はこのところ、奇跡講座の解説者などに対して批判的な言説を繰り返してきましたが、実はそんな人は存在していなかった、ということがわかってきました。

そうした人はただ、私の記憶の中に構築されたイメージでしかなく、私はそのイメージを相手にしてごちゃごちゃと思っていただけだったんですね。

で、大切な区別ですが、これは、実際にそうした人が存在していない、ということではありません。

単に、私がそうした人だと思って相手にしていたものは、私のイメージでしかなかった、ということです。

パソコンを修理に出していた間は、ネット関係では少々不自由でしたが、それもスマホで基本的なことは済ませられましたし、逆に、あまりネットに触れない日常を味わったことで、いい気づきと変化がもたらされたことは、とてもラッキーだったと感じています。