列車が行き違った日

(1月15日のツイート集)

いわゆる「二極化」というのは、何に関心を持っているとか価値観がどうかとか、ポジティブ列車かネガティブ列車か、といったことではなく、どうやら、いわば上り列車と下り列車のように、「意識の方向性が違う」ということのようです。

いわゆるポジネガは、特急と各駅停車の違いのようなものです。

なので、ま、本当に自分が生きたいように生きる、ということが、つまり、「「のぞみ」に乗る」、ということなんでしょうね。

しかしここでも、上りの「のぞみ」と下りの「のぞみ」とがあるんですよね。。。

しかし、まあ、「反対方向」に向かっている方々、つまり、神を愛しすぎた結果、神に「成り代わって」しまった方々は、実は「神から離れる」方向に邁進していかれるわけですが、そうした方々もまた、「終点」にたどり着けば折り返しの列車に乗るわけですから、それでいいのかもしれませんね。

なので、「みんなでつるむ」のであれば、せいぜい、鶴見線に乗って終点の海芝浦駅に行って、改札口から出ずに海の風景をちょっと眺めてそのまま引き返す、というぐらいがいいんじゃないですかね。

それならすぐですしね。

ただし本数が少ない(笑)。

ああ、でもね、「のぞみ」に乗ると、確かに速いんですが、スムーズすぎてつまらなく感じる人もいて、ツウはあえて各駅停車で上京したりするわけですよ(笑)。

ウサギとカメならどっちにします?

つまり高次の逆さま広小路(笑)。

「高次の逆さま広小路」を説明しますと、心の核心部に迫るところは、『モモ』でいう「逆さま小路」になっているわけですが、これは一見「狭き門」のようで実はフルオープンなので、「広小路通」なんですね(笑)。

(註。ただし、名古屋市にある広小路通のことではありませんから、心の核心に到達しようとして、いくら名古屋市の広小路通を歩いても、ただレベルを混同するばかりであり、必ずしも到達するわけではありませんが、心の中の広小路通を「 festina lente で、後ろ向きにゆっくり急ぐ」ことで、地上のどこにいても到達します)

常識的には、対化することは「退化する」ことのようにしか見えないので、この世界においては、常識人から見た対化していく人と、対化していく人から見た常識人とが、互いに相手に向かって「あなたはたいかはしたいかな」と言っているわけですね。

天地人ということで言えば、天がオリオン、地がプレアデスなんですが、つまり、人は本来シリウスであったということなんですね。

なので、総体としての人類がシリウス領域に到達したために、「列車交換」が可能になったわけですね。

可能になったというか、「可視化された」わけですが。

ですが、「天地人」の順番のままだと、天がオリオン、地がプレアデスというところまではいいんですが、これだと、人はスマルになってしまうわけですね。

なので、「天仁地人」って感じ?

心配すると馬鹿を見る。

心配するというのは、「馬鹿な私」というイメージを相手に投影するために、あまり心配し続けると、ありのままの相手が次第に見えなくなっていき、最終的には実際にも相手が馬鹿に見えてくるので、文字通り「馬鹿を見る」結果に終わる。