外面性への「着地」

この数週間、パソコンを修理に出していた関係で、あまりネットを見ない生活が続いていましたが、いや、これは快適ですね。

なんというか、いかに今まで私が、ネットの情報空間に気を取られまくっていたかがよくわかりました。

なので、その間に、例えば世界情勢について解説している動画を見ても、なんだか、その解説をしている人が、ただその人の頭の中で展開している話をしゃべっているだけ、という感じがして、そうか、だからこそ、世界で起きていると思われている戦争もまた、単に内面的でバーチャルなことでしかないのか、ということが、なんだか理屈抜きで分かってきました。

つまり、そうした内面性のようなものを万人が共有することにより、実際にもそれが現に起きていることであるかのような事実認識が共有される、という流れがあるわけです。

(もちろん実際には、ことはそう単純ではありません。

例えば戦争に関しては、現地に行けば大変なことが起きているわけですから)

しかしそれは単に、そこから離脱すると決めるだけで自由になる、というぐらいのものですが、人の内面性への取り込まれ度合いは、わかってみると、それはもう半端ではないわけです。

しかしやはり、そこから離脱してこそ、はじめて人は、外面的に生きることができるようになるようです。

ここにはどうやら選択の余地はありません。

そしてそこからならば、ネットの情報も、振り回されずに「有効活用」できるのかもしれません。

さて、それはともかく、そうしているうちに、日常にどんどん気が回るようになり、なんだか日常的なことに充実感が出てきました。

そうすると、戦争などの話は、本当にリアリティがなくなっていき、今の自分の日常性のリアリティが意識の前面に出てきて、それまでも私はずっと意識覚醒に取り組んでいて、確かに、この世界においても自由や解放感を感じていたにもかかわらず、それはまだ、いわば潜在化した状態でのことだったのかもしれない、というぐらいになってきました。

例えば私はこのところ、奇跡講座の解説者などに対して批判的な言説を繰り返してきましたが、実はそんな人は存在していなかった、ということがわかってきました。

そうした人はただ、私の記憶の中に構築されたイメージでしかなく、私はそのイメージを相手にしてごちゃごちゃと思っていただけだったんですね。

で、大切な区別ですが、これは、実際にそうした人が存在していない、ということではありません。

単に、私がそうした人だと思って相手にしていたものは、私のイメージでしかなかった、ということです。

パソコンを修理に出していた間は、ネット関係では少々不自由でしたが、それもスマホで基本的なことは済ませられましたし、逆に、あまりネットに触れない日常を味わったことで、いい気づきと変化がもたらされたことは、とてもラッキーだったと感じています。

列車が行き違った日

(1月15日のツイート集)

いわゆる「二極化」というのは、何に関心を持っているとか価値観がどうかとか、ポジティブ列車かネガティブ列車か、といったことではなく、どうやら、いわば上り列車と下り列車のように、「意識の方向性が違う」ということのようです。

いわゆるポジネガは、特急と各駅停車の違いのようなものです。

なので、ま、本当に自分が生きたいように生きる、ということが、つまり、「「のぞみ」に乗る」、ということなんでしょうね。

しかしここでも、上りの「のぞみ」と下りの「のぞみ」とがあるんですよね。。。

しかし、まあ、「反対方向」に向かっている方々、つまり、神を愛しすぎた結果、神に「成り代わって」しまった方々は、実は「神から離れる」方向に邁進していかれるわけですが、そうした方々もまた、「終点」にたどり着けば折り返しの列車に乗るわけですから、それでいいのかもしれませんね。

なので、「みんなでつるむ」のであれば、せいぜい、鶴見線に乗って終点の海芝浦駅に行って、改札口から出ずに海の風景をちょっと眺めてそのまま引き返す、というぐらいがいいんじゃないですかね。

それならすぐですしね。

ただし本数が少ない(笑)。

ああ、でもね、「のぞみ」に乗ると、確かに速いんですが、スムーズすぎてつまらなく感じる人もいて、ツウはあえて各駅停車で上京したりするわけですよ(笑)。

ウサギとカメならどっちにします?

つまり高次の逆さま広小路(笑)。

「高次の逆さま広小路」を説明しますと、心の核心部に迫るところは、『モモ』でいう「逆さま小路」になっているわけですが、これは一見「狭き門」のようで実はフルオープンなので、「広小路通」なんですね(笑)。

(註。ただし、名古屋市にある広小路通のことではありませんから、心の核心に到達しようとして、いくら名古屋市の広小路通を歩いても、ただレベルを混同するばかりであり、必ずしも到達するわけではありませんが、心の中の広小路通を「 festina lente で、後ろ向きにゆっくり急ぐ」ことで、地上のどこにいても到達します)

常識的には、対化することは「退化する」ことのようにしか見えないので、この世界においては、常識人から見た対化していく人と、対化していく人から見た常識人とが、互いに相手に向かって「あなたはたいかはしたいかな」と言っているわけですね。

天地人ということで言えば、天がオリオン、地がプレアデスなんですが、つまり、人は本来シリウスであったということなんですね。

なので、総体としての人類がシリウス領域に到達したために、「列車交換」が可能になったわけですね。

可能になったというか、「可視化された」わけですが。

ですが、「天地人」の順番のままだと、天がオリオン、地がプレアデスというところまではいいんですが、これだと、人はスマルになってしまうわけですね。

なので、「天仁地人」って感じ?

心配すると馬鹿を見る。

心配するというのは、「馬鹿な私」というイメージを相手に投影するために、あまり心配し続けると、ありのままの相手が次第に見えなくなっていき、最終的には実際にも相手が馬鹿に見えてくるので、文字通り「馬鹿を見る」結果に終わる。

「闇」の毒舌

そもそも、自分は食べ過ぎだとか浪費しているとか、つまり欲望が過剰になりすぎたと反省して、「持続可能な」程度にまで禁欲を実践するというのは、常識的に考えて普通の筋ですが、まさにそれが闇の勢力がしていることですしね。

自分の欲望や欲求に関しては「完全管理」するのが当然という風潮があるのですから、自分の心に関してはむしろ「完全管理社会」でありたいとしているわけです。

される側になるとものすごく反発するけど、する側になると粛々と実行する。

そんなものです。

とか、毒舌に磨きがかかりすぎ。。。

子ども食堂問題からの大風呂敷

子ども食堂の問題のニュースを見て。

もうなんかこれは、5千人にパンを与えるぐらいのことをみんなができるようにならないと、どうにもならないのでは? とか。

そもそも、誰もが食べ物ぐらいは自分で物理的奇跡によって出現させられるようになれば、貧困の問題もそれほど問題ではなくなるかもしれませんしね。

とか、自分の誇大妄想狂にもやれやれですが。

だいたい、言葉だけで何も実際が伴っていませんし。

というか、今までこういうことを真面目に取り上げた人は本当にいないんですかね?

私にはむしろその方が不思議なんですが。

というように、なんか頭のネジが緩んでいます、すみません。。。

実際には私は、緊張型頭痛が慢性的にあるので、つまり、ネジの締めすぎなんですけどね(^_^;

ただし、これは残念ながら、人間という限界に自分を無理矢理押し込めようとしすぎているからのようですが。

もしかするとですが、緊張型頭痛の人は、自分を窮屈に押し込めすぎているとかかもですね。

ただしこのままで、自分を無理矢理広げようとしても、余計に葛藤が強くなり、頭痛もひどくなるだけなので、自分はむしろ、自分を制限しているに過ぎないので、自分が自分を制限しないようにする、という方針の方がいいみたいです。

ただし、少しずつする必要がありますが。

とかさあ、もう完全に、どこか常識がどっかいっていますね、私。。。

まあ、常識の方が実は非常識なので、しゃーないですが。

今まで非常識とされてきたことの方に、実は「超常識」に至る道があった訳なので。

完全に頭わいてます、すみません。。。

こういうのも、別に、ウィルバーさんの、「プレパーソナル – パーソナル – トランスパーソナル」の3段階説を受け取っただけですけどね。

これがまた、「innocence – sin – sinlessness」という、奇跡講座的プロセスと通じているという。

そしてこれ全体が終わってみると、実は始まってもいなかったと。

要するに、自分とはアルファでありオメガであった、というわけです。

で、これをイエスさんは、単なる知的理解ではなく実感から、「アブラハムが生まれる前から「私はある」」(ヨハネによる福音書、8.48のタイトル)と言ったわけなんですけどね。

「あなたは自分の選択するままに、霊からでも自我からでも語ることができる。霊から語るなら、あなたは「静まりて、われの神たるを知れ」を選んだことになる。この言葉は智識を反映しているので、霊に満たされている」(http://T-4.in.2:1-3)

こういう記述がことごとく無視されていますね。

こうした、奇跡講座学習状況における、何か根本的なおかしさの意味するところは、というわけです。

いつまで自分を、ただ「罪の子」にしていたいのか、ということですね。

自分は自我を選ぶという「罪深い」ことをしているので、赦しを学び、実践しなければならない、という「霊的罰ゲーム」は、そろそろ終わりにしないと、です。

だからこそ、奇跡講座自体を自我が利用するという、とんでもないことになっていたわけですし。

とか、これはもう完全に、「敬虔な奇跡講座信者」からは、「あれこそが本物の自我だ、これは徹底的に赦さなければ」となるのは火を見るより明らかですし、また、私も、自分の方が正しいとは全く思っていませんから。

ただ単に、何か私ももう無理、限界なので。

後はただ「自己流」で行きます。

どこかでは戒められている方法ですが。

って、一部の人には多分、ぐさぐさ来ていますね、すみません(笑)。

私はむしろ、自己流でないと何一つ本当の意味では身につかない「学習ハンディキャップ」(T-12.V.5:1)があったので。

「迷い」考

外面的に生きるとき、今までは心の中だけで処理していた迷いや混乱などがもろに出て、あれこれもろに迷ったりするが、それは、自我とともに内面的に作り出していた迷いや混乱がほどけていくときに、いわば「反迷い」として、迷いが現れては消えていくプロセスのようだ。

だから、変な言い方だが、「心置きなく迷う」ことで、混乱していた心的プロセスがほどかれて、心の中がよりシンプルになっていくようだ。

新しい始まり

いよいよ、何かが始まった感じがする。

ここまで来るのが本当に大変で、また、長かったけど、道はまだ続いている。

ただし、ここまで来たら、もう、後の道のりは、だんだんとスムーズになっていく。

ぐれんとひっくり返る、その肝心要の部分、本質的なところが、どうやら、ほぼ完了した。

すべての人をもれなく新しい地球に移行させることができた。

ただし、形としてもそれがありありと現れてくるのには、まだ今しばらく時間がかかる。

いろいろな人が引き継いできた「魂のリレー」。

そして、今、生きている人はすべて、その「しんがり」となるべく生まれている。

すべての災いを転じて福となすときが来た。

終わりよければすべてよし。

来歴はもはや問われない。

過去からも未来からも自由な「常今(とこいま)」を生きること。

ここにこそ神が現前する。

もはや地上と天国の区別は限りなく薄れ、

やがて物質は光り輝くようになるだろう。

闇とは光を求める気持ちである。

愛と裁きの混同

ある人のブログにコメントをしたが、私の伝えたいことは伝わらなかったので、そのことに関して説明するコメントを書いていたが、聖霊から、やめるように言われたので断念した。

しかし、ものすごい葛藤と苦痛というか、心的な苦痛に襲われた。

そしてわかったのが、私は、その心の苦痛から逃れるために、他の人に「愛ある働きかけ」をしようとしていたということであり、また、自分では「愛ある働きかけ」だと思っていたものこそが、実は他者への裁きであった、ということだった。

いい意味でショックである。

お出かけ

ちょっとした用足しで近所の人と話したが、「気をつけてね」と言われた。

特に何か出かけるとかではないにもかかわらず。

ずっと昔、精神科の診察で、睡眠中の夢の話をしていたとき、精神科医から、「あなたの夢で特徴的なのは、何か、ずっと旅をしているかのようだ、ということですね」という意味のことを言われた。

ネットで知り合いになった人と顔合わせをしたときにも、「もう二度とお会いすることはないかもしれませんが」と、複数の人から言われた。

もちろん、それらの人同士は、互いに面識は全くない。

ここまで「状況証拠」が積み重なれば、私の魂がどのようなことを意志しているかは、明白なのかもしれない。

寂しさの「源」

ある方のブログで、身体に関するコンプレックスを克服したという話があったが、その方は手術をしてコンプレックスを取り去ったと書いていた。

一般的にはそうなんだよなあと、あらためて感じた。

私の感覚だと、身体的な問題をコンプレックスと感じているのは自分の知覚が自我によってゆがんでいるからであり、つまり、真のコンプレックスは心の側にある、などと主張してしまうから、もしそんなことを公言したら、その方はもちろん、多くの人が私のところから去って行くだろう。

正直、ものすごく寂しい。

ここで、私の学びとしては、そうした人がいる、つまり、コンプレックスを感じる対象の側をどうこうすることに終始して、真のコンプレックスのありかには決して目を向けない、という方針を貫いている人がいる、という知覚自体を赦すことになるのだろう。

それはまた、真の知覚を育むことになるのだろうけど、しかし、正直もう参っている。

追記。投稿してみて気がついたが、私もまた、赦す必要性を対象の側においていた、ということに気がついた。

つまり、そうした人を赦す、のではなく、そうした人に私が無意識に投影している何か、を、直視する必要があるわけであり、赦す必要があるのはそこである。

一つの終わりと新しい始まり

すれ違う人がみな、かつて関わりがあった人のような気がして、まるで、生きながらにして走馬灯を味わっているかのよう。

秋の街はうら寂しく、抱きしめたくなるほどの愛おしさだった。

写真を撮っている人がいて、また別の人も撮りはじめ、私も便乗し、そして一期一会で会釈して去る。

そのようにして、かつて私であったものと別れた。

すべてが、ある一つのサイクルの完結を示していた。

だが、さらにその奥から、存在の根底から、巨大な闇が隙をうかがっているのを感じる。

それは、隙あらばこちらの息の根を止めようと、虎視眈々としている。

ただ、もしそれに飲まれたとしても、それが「道」だったのだろう、という感じで、それはただ自分の根底にある恐怖であり、私が作り出したものであり、それが神から私を「護って」いたものだった。

ただそれは染みわたり、そしてその無性(むせい)が次第に感じられる。

無とは単に「何もない」ということであり、そこには依然として、ただ光があるのみである。