Beautiful dreamer, wake unto me!

(タイトルの元ネタはこれですが、「wake unto me」はおそらく、「私に気が付いてほしい」ということなのでしょう)

「これをすれば意識覚醒・進化できる」というふれこみのものをすればするほど、本当の意味での覚醒や進化から遠ざかっていく、ということに気が付くかどうかがカギだ、というぐらいの逆説性。

「概念への退行」はあまりにも「蠱惑的」であり、それは「Beautiful Dreamer への誘い」でもある。

言葉上の理解のみにて「わかった気になる」というのは、本当にわかったのではなく、一種の「催眠術・魔術」であり、あるいはせいぜい、ひたすら自分を説得しているだけである。

自分を説得しきればいつか納得してくれるだろうとして「自己説得工作」にいそしむことは、結果として「シャドウ」という「テロリスト」を育成しているようなものである。

いずれ大どんでん返しが来ることをますます確固たるものにしていくが、ため込まれたひずみが一気に解放されるとき、全てが逆転し、そのことによって「神へのスイングバイ」を果たし、急激に覚醒できるために、いわば「勢いをためて」いるのである。

そのように、「概念世界への引きこもり」とは、反転の必要があってのことではある。

その中では、ついに神からの分離を果たすことができたという「仮想的安心感」をもたらしてくれる、自我という「意識の繭」に包まれているのがとても「心地よい」。

それは実は破綻しているので、ずっとあちこちパッチを当て続けなければならないが、「これが私の生きる道」という「プライド」が、その努力を「力強く後押し」してくれる。

ただし、自我という「意識の繭」は、幼虫から成虫へと変態するためにはとても有用である。

時期尚早には気を付けなければならないが、半面、さなぎのどろどろの段階で腐ってしまわぬよう。

「これが奇跡講座だ」と現在思われているものは、実は奇跡講座ではなく「反奇跡講座」であり、ちょうどセフィロトに対するクリフォトのように、その形は同じだが、その本質が生と死、光と闇、愛と恐怖というぐらいに逆転している。

それはあたかも、水面に映った樹の影の方を、その樹そのものだとして捉えているようなものであるがゆえに、これはまさしく「洞窟の比喩」そのものでもある。

いくら天橋立を「股覗き」しても、それが天上への橋になるわけではない。

思考体系はそのように、まず反転した形で学ばれ、しかる後にその全体が逆転することで、初めてその本来の機能を発揮する。

私にもよくわからないが、体験的には、どうやらそのようになっているとしか言いようがない。

これは理論ではなく「体験談」なので、いくら考えても分かりません。

相済みませんm(_ _)m

それは本当に「攻撃」なのか

私の体験から入った方がわかりやすいでしょう。

私が若いときですが、喫茶店でランチに定食を頼みました。

で、やってきた定食は私が頼んだものではありませんでした。

ですが私は、現状を受け入れなければならないとして、その定食を食べました。

私が頼んだ定食は、どうやら別の人のところに行ったようだったので、私が食べた定食は、たぶん、その人が注文したものだったのでしょう。

普通に、「これ、違います」と言えばいいだけ、の話ですね。

しかし、当時の私は、それを言うことですらも「攻撃」だと感じていました。

あ、今はもちろん、言いますよ。

で、ですね。

自分が「これは自分の攻撃的な気持ちだ」と捉えているものは、それ、果たして本当に攻撃なんでしょうかね?

それ、誰が決めたんですかね?

上に書いた私のケースは、これなら明らかに、自分の攻撃的な気持ちだと捉えているものは、本当は攻撃ではない、ということがわかりやすい、極端な例です。

もちろん、明らかに攻撃だと感じられる気持ちもあります。

例えば私だと、若い頃は内心で、親を殺すか自分が自殺するか、というぎりぎりの心理状態でした。

ですから、あの当時の私がもしうかつに自分を肯定してしまったら、冗談抜きで親を殺害していたかもですしね。

ですが、親に対する殺意ですらも実は、自分の存在性が根底から抹殺されたという悲しみが深すぎることによるものだったわけです。

あらためて問いましょう。

で、どこが攻撃なんですかね?

その「攻撃心」は、ただ自分を苦しめ、追い詰めているだけです。

正確に言うと、「これは自分の攻撃だ」という信念が自分を苦しめています。

こうしたことは、少なくとも形の上では、奇跡講座とは全く路線が異なります。

ただ、日本には日本の「特殊事情」があります。

とりわけ、現代の日本の精神的状況は、奇跡講座が降りてきた当時のニューヨークの精神的状況とは大いに異なっています。

どこに書かれていたかは忘れましたが、当時のビルやヘレンがいた状況に関する描写だと、彼らの属していた研究室かどこかの対人関係は、あからさまに攻撃的なものでした。

ですが、日本人の場合は基本的に、攻撃的な気持ちは内向します。

奇跡講座に描かれている心理状況は、学習者が良くも悪くも自我に乗っ取って生きている状態であることが、暗黙の前提になっています。

ですが、日本人の場合には、建前と本音は別ということが当たり前になっています。

西洋の心理学が当然としているような、自我がしっかりとあってどうのこうのというのは、おそらくは、そのままでは日本人には当てはまりません。

そもそも、ラカンは「日本人には精神分析の必要はない」とまで言ったそうです。

http://www.kojinkaratani.com/jp/essay/post-67.html#:~:text=%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E5%88%86%E6%9E%90%E3%81%8C%E4%B8%8D%E8%A6%81%E3%81%A0

ここでの柄谷行人の考察は、鈴木孝夫の言う「テレビ型言語」、あるいは養老孟司も言っていますが、日本人の言語感覚は、聴覚的なだけではなく視覚的な要素も多用している、ということに通じます。

それは、表音文字と表意文字が混在していることによるものですが、実は、現存している言語のうち、こうした言語は日本語だけです。

古代エジプトのヒエログリフがそうだったとか、あるいは、中国でも漢字を表音文字のように音声を表記するものとして用いる、というより、実は結構表音文字的に用いているらしいですが。

というのは、例えば、「自我」という言葉の「我」ですが、これ、実は「まさかり」という意味の漢字であり、「わたし」とか「自分」という意味は元々はないそうです。

ですが、「わたし」に相当する「が」という音声を表記するために、同じ音の「我」という漢字を仮に借用したものらしいです。

ま、中国語の感覚は私はほぼ知らないので、ここまでにしますが、とにかく、日本人の場合には、西洋とはかなり事情が異なっているということだけは言えます。

これは、人類に普遍的な意識構造自体もまた、日本人だけは他の外国人とはいろいろと異なっている、ということが、いろいろな情報源で指摘されています。

ただしこれは、だから日本人が特別に優れているといったことではなく、単に、異なる事情を抱えているということです。

ものすごくざっくりというと、日本と諸外国とでは、個と全体との位置関係や優位性が逆になっている、という捉え方も可能です。

例えば欧米では、自我としての個人の集まりが全体を構成している、というように捉えているとすれば、日本人は、まず全体性があり、そしてそこから個人の立ち位置を捉えている、というような捉え方が一般的です。

ですから、心の問題の様相に関しても、全く同じというわけではない、ということです。

心理学的技法の一つに、「アサーション」というものがあります。

https://www.hrpro.co.jp/glossary_detail.php?id=68

https://jinjibu.jp/keyword/detl/302/

後者では「婦人解放運動」という言葉がありますが、これは当時のウーマンリブ、今でいうフェミニズムです。

アサーションとは、自分も相手も攻撃せずに自分自身として存在する、という技法です。

女性は、世間一般的な「女性」というイメージや、あるいは相手の男性が一方的に押しつけてくるイメージを、ただ受け入れたり、そのイメージに積極的に「なりきる」ことでしか生き延びることができなかった、といういきさつがあったために、こうしたことの必要性が自然に湧き上がってきたのでしょう。

もし若い頃の私がアサーションについて知っていたら、喫茶店で、自分が注文したのとは異なる品が運ばれてきたときも、「これ、違います」と発言してもいい、と踏まえることができたでしょう。

繰り返しますと、自分が自分の「攻撃性」だと思っているものは、果たして本当に攻撃性なのか。

もう一つ挙げましょう。

先日、また喫茶店にいましたが、そうすると店内に、強烈な悪臭を漂わせながら、あるおばあさんが入店しました。

身なりはちゃんとしていたんですが、おそらく何ヶ月も、下手をすると半年ぐらいは風呂に入っていなかったのかもしれません。

もちろん、耐えがたい悪臭ですから、思わず私は怒鳴りそうになりました。

「おい、臭いがひどいから、洗い流させてくれ。あなたが自分でできないのであれば、なんならうちの風呂に入れようか?」と。

ま、私はこれを、自分の「激怒」だと感じていたわけです。

通常の場合には、もちろん、こうした感情はまだ、自分の腹の底からの激怒だとしか捉えられません。

ものすごく「むかつく」から、その人の悪臭を洗い流してしまいたくなるわけですから。

思いっきり「攻撃」ですよね(笑)。

で、これは本当に攻撃なんですかね? (笑)

心が解放されてくると、こんなもんです。

ただし、思うだけで行動に移さなかった辺りは、私もまだまだずるいやつなのかもですが(笑)。

ここからがたぶん、本当に無意識の闇の信念に触れ始める段階なのかもしれません。

もちろん、自分の「攻撃性」を少しだけ表明しただけでは、実際にそれは「攻撃」だ、と「実感」する現実が現れます。

攻撃の実在性を前提とすれば、あたかも攻撃が実在しているかのように知覚されるからです。

もしあの時に私があのように表明していたとしても、そのおばあさんはたぶん、「いえ、結構です」と言ったと思いますし、それだけではなく、唐突すぎる働きかけに恐怖を覚え、自分が風呂に入っていないことに罪悪感を感じ始めるだけの結果に終わったかもしれません。

そうするとやっぱりあれは、「ただの攻撃」でしかなかったわけですから。

現代では、このように、自他が分離していることは「当たり前」ですから、むしろそこから立ち上がる必要があります。

ただし、ですからここでも、「別の見方がある」(レッスン33,34)ということになります。

攻撃の実在性を前提とした知覚は、いずれ行き詰りますから。

ただし、「攻撃の実在性を前提としている」というのは無意識のレベルでの選択なので、自分で変えようとするとかえってややこしくなりますが。

自分としては、別の見方があるという可能性を否定せずにいる、という感じかもです。

そうすると、時間の多少はあれ、いずれ何らかの形で分かってきます。

とにかく、攻撃もそうですが、他の人や自分の中に感じる悪意や敵意といったものも、すべてもれなく「ただの信念」です。

そういうものが実在するという信念のために、あたかもそういうものが実在しているかのように知覚されているだけです。

こうしたことは、まずは部分的に分かってきますが、これはまず、特定の人や状況や出来事についてわかり、しかる後に、それには例外がない、というように汎化されます(cf. W-in.5)。

ちなみに、私が今「汎化」と書いたものは、公認訳では「普遍化」と訳されています。

「汎化」というのは学習心理学の用語ですが、今では「般化」の方がよく用いられるようです。

https://kotobank.jp/word/%E8%88%AC%E5%8C%96-117849

こうしたプロセスは、精神分析療法で言う「徹底操作・ワークスルー」と呼ばれる段階に相当するのでしょう。

しかし、世界や他者の姿に投影している攻撃性などの知覚を訂正するのは簡単ですが、いきなりダイレクトに自分自身に適用することは、困難であるだけではなく不可能のようです。

なので、まずは他者知覚に対して適用されて、しかる後にそれは自分に対しても同様であった、という流れになるようです。

ただし、自分に対する適用は自分で行うのではありません。

自分で自分を赦したり愛したりするというのは、もしかすると、「神が与えようとするものを自分で自分に与え」る(M-5.2:8)ことではないかと感じていますが、この辺りはまだ私の理解不足です。

いずれにしても、奇跡講座の場合には、自分で自分を愛するのではなく、自分は神に全面的に愛されている、ということを無意識の奥底で否認し去っている、というところを見る、という流れになると思われます。

もちろん、ある段階までは、自分で自分を愛するというのは、とても大切なことです。

それは実践のための基礎を形成します。

ただし、それはある段階を超えると、むしろ実践や理解を妨害するものとして作用し始めます。

これは、そうした方法が間違っているとかではなく、例えば、「向こう岸」に着いたら船は不要になるのに、いつまでも船を頼りにしていると、今度は船が邪魔になってくる、というようなものです。

言ってみれば、自分で自分を愛するというのは、いわば「船造り」みたいなものですが、自分が「荒海」だと思っていたものは、実はただ神の愛でしかなかった、ということがわかってくると、船自体が不要になります。

これをいきなり、船は幻想を現実化するものであり、そんなものは初めから不要だ、としてしまうと、文字通り「神の愛に溺れ死ぬ」ようなことになりかねませんしね(笑)。

ま、また話に収拾が付かなくなってきていますが、とりあえずこうしたこともまた、「このコースを学ぶには、あなが抱いている価値観のすべてを疑ってみようとする意欲が必要である」(T-24.in.2:1)ということであり、これはまた同時に、「別の見方がある」ということを否定しない、ということとも関連してきます。

ではでは~。

なぜ体験は「言葉を超えて」いるのか

中核的なところは、常に言葉を超えているわけですが、では、なぜどうしてもそうなってしまうのかについてです。

これは、以前のブログで、私に絡んできた人が、「あなたは「体験することが必要だ」としきりに言うが、そういうことは新興宗教の教祖がよく言うことだ。あなたの言う「体験」をしていない人にも伝わるように、もっとわかりやすく言い換えることはできないのか」と言ってきたことがあるんですが、正直、こう思いました。

「それはあたかも、「リンゴを食べる」というのをもっとわかりやすく言い換えることはできないのか、と言われているように感じるので、それでは例えば、「リンゴを食べる」というのを、「骨の延長物のようにして、象牙質をベースにしてエナメル質に覆われている、上下に組み合わさった一連の突出物によって、クエン酸の影響で酸味のある、赤くて丸くやや固い植物の果実を、自らが自分だと認識している「肉体」という領域内において、その口腔内で砕き、またすりつぶすようにして、その成分を味蕾がキャッチするのを脳内で処理する」という感じにでも言い換えることを求められているように感じるんですが」、みたいな。

ま、具体的にここまで思ったわけではありませんでしたが、このぐらいのことを求められているように感じた、ということです。

あ、この詳細な表現はもちろん、ただのネタですよ。

さて、で、「悪魔の証明と「信頼する理由」」で書いた段階では、実はまだ充分ではありません。

あの段階ではまだ、「理性的な自己説得」をしている段階なので、何かの拍子に、すべてが「暗転」することが容易に起こります。

これを、「絶対的な愛から絶対的な憎悪への、不安定極まりないシフト」と表現すると、心理学をある程度ご存じの方は、なんかわかってきますよね。

下手をすると、これで一生を費やしかねない場合もあります。

ではとうすればいいのか。

そこで「体験」ですよ。

って言うから、先ほどの方のような突っ込みがどうしてもある、というのは、わかっちゃいるんですけどね。

で、他にどう表現すればいいんですかね?

「最も核心的なところは言葉で言うことはできない」と、神秘主義や、禅などで見性した人がこぞって言うことは、まさにここなんですけどね。

それはなぜか。

いくら言葉で表現しようとしても、先ほどの「リンゴを食べる」ということで書いてみたように、表現がどんどん抽象的で細かくなっていくだけ、なんですよね。

これはもう、どうしようもないところがあるようです。

ですが、ここを潜り抜けない限り、どうしてもこの、「すべてか無か」というところを潜り抜けることができません。

「すべてか無か」という段階ではまだ、瞬時にして何もかものニュアンスが暗転する可能性が残されているわけですから。

さて、ヌーソロジーで用いられる「ケイブコンパス」というものがありますが、ここからわかったことに基づいて体験してみた結果を、ここに書きます。

まず、次元観察子でψ9,10と言われているものがあり、これはそれぞれ「思形(しけい)」と「感性」と呼ばれていますが、これらはまとめて、「調整質」とも呼ばれるそうです。

これは、このψ9,10こそが、万物に見られる二元性の、いわば「発信源」として作用しているから、なのだと思います。

二元的な捉え方が重層的・多層的に「調整」されるための「原因」として作用している、というわけです。

ですから、これらの相互作用がもたらすものが、ある一面からは「罪」と呼ばれるため、奇跡講座には「調整としての罪」(T-20.III.h)という表現があるものと思われます。

言い換えると、調整作用によって意識は複雑に発達するわけですが、その目的は、本質的な分離感を、認識を複雑にすることによって「やりくり」するためですから。

ただし、これこそがまさに、「そもそも何が問題だったのか」を明晰に認識するために必要だったというわけです。

ですから、奇跡講座で一貫して説かれている、ある種の「無手勝流」的感覚ではどうしてもうまくいかないところをこそ、この「調整としての罪」が実は潜在的に担っていた、というぐらいのものがありました。

さて、ψ9,10は、二元性そのものの、いわば「テンプレート」として機能しているわけですが、この二元性には、実は、さらなる原因があります。

ψ11は、その上に位置する段階ですが、ここはどうやら、「純粋な喜び」の段階であり、また、「すべては自分だった」という認識の位置する段階のようです。

ですから、これはある種の非二元性なんですね。

ψ9,10が等化されたところにもたらされる、非二元的な喜びが、ψ11にはあります。

ところが、です。

問題は、次のψ12です。

ここは、「他者性」の領域なんですが、つまり、簡単に言うと、「何一つ自分ではなかった」という認識が訪れます。

これは、先ほどのψ11とは真逆の、何か「絶対的な否定性」とでもいうぐらいの感覚です。

例えば、自分の過去は何もかもが間違っていたとか、自分の人生は失敗だらけだったとか、この世界は攻撃と罪と虚無で成り立っているとか、神とは実は「とんでもない悪魔」だったのではないかとか、とにかく、ありとあらゆる物事に対する、何か根源的な否定的な感覚は、どうやら、このψ12が潜在化していることによるもののようです。

ですからここでは、「これは何かが根本的に間違っている。こんなことは直ちにやめて、全力で引き返そう」という、ものすごく強い欲動が働きます。

これに抗うことは、普通は不可能です。

なぜならこれは、ある意味では、自己の「死」の体験そのものだからです。

つまり、ここでものすごい欲動が働くのは、これは「死の恐怖」そのものに直面する体験ですから、それはもう、全力で回避したくなるわけです。

はじまりに近づくにつれて、あなたは自分の思考体系が破壊されるという恐れを、あたかもそれが死に対する恐れであるかのように、自分の身に感じる。死というものはないが、死を信じる信念は確かに存在している。

T-3.VII.5:10-11

この場合は、ここで「はじまり」と書かれているところがψ13に該当していて、ここで味わう恐れが、ψ12を通過するときの恐れです。

なので、人間的な感覚をもってしては、ここは絶対に通過できない領域となっています。

だからこそ、イエスさんのこのような言葉があるわけです。

自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る。

ヨハネによる福音書、12.25

これはつまり、自分の命、というよりもこれは、奇跡講座で言う「自己概念」と生命としての自分とがごっちゃになっている印象もありますが、生命としての自分よりも自分の自己概念の方に愛着を感じている場合には、ψ12を超えていくことができない、言い換えるとψ11の段階にとどまる、ということです。

この文番号が「12.25」というのも、なんか示唆的で面白いですね。

ま、こういうシンクロは、いつもいつもこうなるわけではありませんが。

で、それぞれの話に尾ひれが付くどころか、独立した魚として泳ぎ始めている、というぐらいのことになってしまっているので(あ、もちろん「ただのネタ」的表現ですよ)、話を強引に元に戻しますが、こうしたこともすべて、こうした体験をした人には「なんかわかるー」的な感じになりますが、体験をしたことのない人には、どうしても伝わらない何かがあるわけです。

で、それをどれだけ説明しようが、作品にしようが、無理ですから。

それは例えば、リンゴについてどれだけ分析したり、あるいはリンゴについての音楽や詩歌や踊りや、リンゴを賛美する歌とかによって、どれだけリンゴを褒めそやしても、そうしたことは、「ただリンゴを食べる」ことの代わりにはならないから、です。

ただし、こうしたことは無意味だからよくない、ということではありません。

なぜならば、実際にリンゴを食べてみて、リンゴとはこういうものかとわかったら、それはもう、リンゴについての描写が「異次元」の美しさになりますし、リンゴについて賛美するときにも、心からの気持ちがこもりますし、例えばそのようにして、リンゴを食べる前に自分が行っていたことは、実は何一つ無駄ではないどころか、実際にリンゴを食べてみることによって、それらすべてに「命が宿る」わけです。

ですから、実際にリンゴを食べてみる前にリンゴを賛美したものは、残念ながら「仏作って魂入れず」状態ではありますが、しかしそれは逆に言うと、「あとは魂さえ入れば仏だよね」ということでもありますから。

ですが、この「仏に魂が宿る」体験が、まるで自分が実際に死ぬかのような感覚を、時には伴うというわけです。

ここでは私は、根源的に否定的な感覚に飲まれそうになったときに、ただ「通常通り」の生活をすることによって、ふと、自分とか世界とかの断絶ではない何か全体性、みたいなのを感じました。

ですが私は、世界が物理的にも消えたりとかの超常的な体験は皆無ですので、これもまた、そうしたこととは別のことです。

ですが、ここに来てようやく、なにかほっとする感じになってきたというのはあります。

そうして、「すべてか無か」という、最終的な二元性も、いい意味で「どうでもよく」なりました。

結局それは、「すべては実在である」と言おうが、「何一つ存在していない」と言おうが、「例外がない」という点では、言葉上は同じことだと言えるからです。

だからこそ、出来事は偶然なのか必然なのかということに関しても、最終的には同じことになってくるわけです。

ですが、「すべてか無か」という究極の二元性は、最後までつきまとうようで、その一つの「極致」において、自己の存在性自体への根源的な否定感のようなものがあるわけです。

実は、その否定感の上に、「これでいい」という全肯定の感覚があり、そしてその上に二元性が立ち上がる、というようにして、意識は成立していますが、実はこれ、先の次元観察子の構造を「ひっくり返した」ものになっているわけですね。

つまり、このようにして自分は、生まれた状態から意識を発達させてきたというわけです。

言い換えると、ψ12とは、神からの分離感そのものを表している、と言うこともできます。

ただし、こうしたことは、ヌーソロジー本家では全く言及していず、ただ私の「独自解釈」でしかありませんから、ヌーソロジーではこういうことを言っているというわけではありません。

つまり、生まれたての乳児は、自分の体一つ思い通りに動かせず、形態認識も十分ではないと言うぐらい、完全な混沌の中にいますから、それが安全に守られているわけではないという感覚と相まって、とにかく自分としてまとまらなければならず、そうしたことが、生命や存在に対する何か根本的に否定的な感覚として、意識のベースを形成するようです。

そこから、自分は親の庇護の元に生きているとかの、「とりあえずの肯定性」が認識されて、それまでの何か「絶対的な否定性」は隠蔽されますが、それが、ψ12が潜在化することなのでしょう。

そして次に、自分とはどうやら「別物」が存在しているらしいという認識が生じ、これが、ψ9,10として機能し始めます。

例えばこうしたことが、奇跡講座ではこのように描写されています。

罪を信じるなら、混沌に対する信が必ずその後に続く。その理由は、それが論理的帰結であり、秩序だった思考における妥当な一歩であるかに見えるからである。混沌へと下る階段は、そのはじまりから一段ずつきちんと続いていく。その一段一段は、真理の逆転の過程を構成する異なった形態であり、それぞれが、真理からさらに遠くへ、さらに深い恐怖へと導いていく。その中の一段が他の一段よりも小さいとか、或る一段から引き返すことは他の一段よりも簡単だ、などと考えてはならない。天国からの下降の全過程が、その一段一段の中にある。そして、あなたの思考は必ず、あなたが思考することを始めた場所で終わることになる。

T-23.II.21

つまりこれは、OCOT情報で言うと、タカヒマラをψ13側から見た様子だというわけです。

さて、マジで話に収拾が付かなくなっていますが、たとえば、知覚のベースが変容することで、「悪魔の証明が「信頼する理由」であるというところをも超えることができ、そこではもはや信じる必要がなくなる、というところがあります。

そこでは、例えば、真理とは「事実」だった、という感じになるので、言葉の感覚もまた、なんかずれてくる訳なんですね。

ですから、奇跡講座の形而上学の深遠さからすると、私は別に、何一つ到達していないのかもしれませんから。

単に、言葉を使うことがとてつもなく上手になっただけなのかもしれません。

ですから、私は別に自分が正しいとかは全く思いませんから、もし、「あなたはとてつもない問題を抱え込んでしまったために、もう二度と天国に帰れない。あなたは、神ですらも見限るレベルの危険人物だ」と断言する人が現れたら、むしろその人の発言の方を信じるかもですしね。

つまり、そういうことですらも、どうでもいいからですわ。

あなたにとって私がそう見えるのであれば、あなたにとっての私はそのような人物として映じているのでしょう。

そして、そのことによってあなたが救われるのであれば、私はむしろそれでいいと感じます。

ただそれだけのことです。

「どうでもいい」というのは、この場合には、自己が他者にとってどのような姿として映じているかによって、自己の本質が規定されるわけではなく、自己の本質は神によって保証されている、という意味です。

ですから、「あなたにはとてつもない問題がある」とか「神ですらもあなたを見限るレベルだ」とかいう発言は、単に、その人は相手のことをそう思うことでなんかバランスを取りたいんだろうな、という程度のことです。

言葉は実相からは二重に隔てられている。

M-21.I:10

ですから、言葉自体に意味があるわけではありません。

言葉が有している意味とは、例えば、楽譜に音譜が描かれているようなものです。

その楽譜は実際に演奏してみなければ、意味が分かりません。

楽譜をいくら分析しても、そこに音楽の美しさがあるわけではありません。

確かにそこには、音楽の美しさを再現するための「ルール」を見いだすことはできます。

例えばそれが、コード進行や楽典などです。

ですがそのことと、音楽自体の美しさとは、「別物」です。

ですから、いわゆるヘビメタとかは、波動が好きな人からは「破壊的な」音楽だと捉えられがちですが、何かを「ブレイクスルー」するというのは、もしかするとですが、ある意味で「ヘビメタ的」な何かが必要、なのかもですしね。

もちろん、これはただの思いつきですが。

まして、さっき奏でられたメロディーは、もう二度と再現されることがないかもしれないというのが、「生ける音楽」の実相なのですから、楽譜の重箱の隅をいくらつついても、何も出てきませんから。

こうしたことすべては、例えば、「何一つ信じる必要はない」という言葉の意味が、通常は不信感と自我の疑念や攻撃性を表象する否定的な意味だったものが、実は、自分が信じようが信じまいが、すべてはあるがままで例外なくオーケーだ、だからこそ「何一つ信じる必要はない」のだ、というように、否定と肯定との対立を超えた肯定的なものだった、というぐらい、意味が完全に反転しないとそもそもわかりません。

こうしたことの準備段階として、悪魔の証明的な「理性的信仰」の段階がある、というわけです。

最後に、ψ9,10においては「水平的な」二元性だったものが、ψ11,12と通過するときには、「垂直的な」ものとして体験されるわけですが、これは、二元性が生きたものとして体験される過程ですが、どうやら成長過程で、ここを、まず全否定的に、そして全肯定的に体験することにより、その「垂直的な」体験が「水平化」されてψ9,10となる、というようにして、一般的な意味での「水平的な」二元性というもが生じているようです。

ではでは~

悪魔の証明と「信頼する理由」

スパムメールに関しては、必ずどこかに、これはスパムだと分かる何かがあります。

例えば、差出人のアドレスが、明らかに公的なものではなく、いかにも怪しげなアドレスだとかです。

ですから、スパムメールには必ずどこかに、「これはスパムです」と書かれているわけです。

ただし、ここで言う、「「これはスパムです」と書かれている」というのは、メタレベルでの表現ですが。

さて、ですから、スパムメールの「楽しみ方」として、このスパムにはどこに間違いがあるのかな、というのを見つけ出すという、ちょっと間違い探しや推理小説風味のところもあるわけです。

そして、「悪魔の証明」というものがあります。

有名なところでは、例えば、「カラスは黒い」ということは実は証明不可能だ、というものがあります。

例えば、「黒いカラス」を何羽捕まえても、それでは、「カラスは黒い」ということの証明にはなりません。

というのは、たとえ黒いカラスを百万羽捕まえても、たった一羽でも「白いカラス」が見つかれば、「カラスは黒い」ということは覆されてしまうからです。

それに対して、「カラスは黒い」ということに反証するためには、たった一羽でも「白いカラス」が見つかれば、それで反証したことになります。

このことをスパムメールのことに適用すると、つまり、これはスパムメールだとわかる事柄が一つでもあれば、これはスパムだと判定することができます。

「これはスパムメールだとわかる事柄」というのが、「白いカラス」が見つかることに相当します。

ですから、この場合に反証された事実は、「これはスパムメールではない」ということだった、ということになります。

ここで、書いていて面白いことに気がつきました。

この記事を書くまでは、私は、「悪魔の証明」とは、論理性や証明とは根本的に疑念や不信感に根差している、ということだと捉えていたんです。

だって、「カラスは黒い」というのは証明不可能だからといって、「カラスは黒いとは限らないんだ!」とかって、知り合いの人に言って回ったら、たちまち「あの人はなんか変なことを言っている」という噂が立つわけですからね。

「カラスとは黒いものだ」というのは、「疑うまでもない「事実」」なので、それを疑うようなことを主張するというのは、「根本的に意味不明」だとなります。

これはつまり、論理性とは疑念や不信感に根差しているということではないか、と、今まで私は捉えていました。

ところがです。

先のスパムメールのことに、この「悪魔の証明」のことを適用しようとしたら、「カラスは黒い」に相当する大前提は、「これはスパムではない」ということだとしないと、「悪魔の証明」ということの図式に当てはまらない、ということに気がつきました。

つまり、ここでは、大前提自体がそもそも否定的なものだというわけです。

整理します。

「カラスは黒い」ということは、「白いカラス」が一羽でも見つかれば反証されてしまう、というのが「悪魔の証明」の主張でした。

それと同様に、「これはスパムではない」ということは、「これはスパムの可能性がある」ということが一つでも見つかれば反証される、ということです。

ですから、「これはスパムの可能性がある」ということが一つでも見つかれば、「これはスパムではない」ということは必ずしも成立しない、ということです。

ここで重要なことは、「Aである」ということの否定は、実は、「必ずしもAとは限らない」ということだ、ということです。

ただし、今気がつきましたが、これは、述語論理の場合ですわ。

少し調べてみたところ、事の真偽を判断する伝統的な論理学は、述語論理と区別する必要がある場合には、「形式論理学」あるいは「命題論理」と呼ばれるようです。

伝統的な論理学における否定の場合には、例えば、「Aである」ということの否定は「Aではない」ということになりますが、これは実は、「A」ということに対する肯定・否定のことなんですね。

ですから、この場合の「Aではない」というのは、述語論理的に言うと、「「Aではない」ということである」、ということになります。

ですから、「Aである」ということの、「~である」的な要素を否定するというのは、述語論理だということになりますから。

もう少し詳しく説明すると、「Aである」というのは、「ある要素xに関して、すべての要素xについてAだと言うことができる」ということになります。

例えば、「カラスは黒い」というのは、「そこら辺にいるカラスを捕まえたとしたら、どのカラスを捕まえようが、そのカラスは必ず黒い」ということです。

この「すべての」ということを、「全称命題」といい、この場合に使われる記号が、「A」を逆さまにしたような記号で、顔文字でよく用いられているので、記号自体は見たことがあるでしょう。

ですから、この否定は実は、「カラスは白い」ではなく、「「カラスは黒い」わけではない」ということなんですね。

もう少しわかりやすく言い換えると、「カラスは黒い」の述語論理的な否定は、「必ずしも「カラスは黒い」というわけではない」ということになります。

このことを述語論理で言うと、「ある特定の要素xに関しては、Aだと言うことができる」ということになります。

このように、「こういうものが少なくとも一つは存在する」というのを、「存在命題」といい、記号では、「E」をひっくり返したような記号で表現します。

ですから、「もしかすると、白いカラスが一羽ぐらいはいるかもしれない」というのは、存在命題的な感覚になります。

ですから、「悪魔の証明」とは、全称命題を存在命題によって否定する、という形を取っていることになります。

ま、これはたぶん、論理学の中のなんかの定理なのではないかという気がしますが。

いずれにしても、これが、述語論理的な否定の感覚のようです。

なので、「心情的な感覚」における否定とは、実はそもそも述語論理的だった、なんてことにもなったりしますが。

つまり、心情的な否定の感覚の場合には、Aであるかないかではなく、「絶対にAなんだ」という、その断定的な気持ちに対して反論しているからです。

ですからこれは、「Aである」ということ自体に反論しているわけではありませんから、日常的な感覚で言うと、これは、「必ずしもAとは限らない」という言い方になる、というわけです。

ま、しかしここからわかったことを文学的に表現すると、述語論理的な否定の感覚を形式論理学のレベルで受け取ると、なんかものすごく感情的に反論されているかのような気がする、ということなのかもですね(笑)。

だって、例えば、「カラスは黒いんだ」という主張に対して、「いや、カラスは黒いとは限らないでしょ」みたいに言われたら、というわけです(笑)。

後者は述語論理的な反論です。

ですから、実はこれは、「カラスは黒い」ということ自体を否定しているわけではないどころか、「別の見方もある」という可能性を示唆することで、むしろ、可能性の幅を広げる意味ですらあるんですが。

人類の約半分は、これを、感情的に否定されたと受け取るわけですね。

ま、これも「しらバカ」の一類型ってことで。

(cf. https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%97%9B%E5%BF%AB!%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AC%E3%81%AF%E3%82%AA%E3%83%88%E3%82%B3%E3%81%B0%E3%81%8B%E3%82%8A%E3%81%AA%E3%82%8A)

あ、ちなみに私は、感情的に否定されたと受け取る方の半分に一応属しております、念のためm(_ _)m

えらく脱線してしまったので、話を戻しますが、で、スパムメールの場合には、「これはスパムではない」ということに反証するために、「スパムである可能性」を探し出す、という形を取っているのでした。

つまりですね。

これは「背理法」のとっている戦略だというわけです。

背理法というのは、ある命題を証明したいときに、まず、その命題を否定するような仮の命題を立てて、しかる後に、その仮の命題が正しいとすると矛盾が生じる、ということによって、逆説的に、だから最初の命題は正しかったとする、という間接的な証明法のことです。

これは、その命題を直接証明することが不可能な場合に用いられます。

ですから、スパムであるかどうかの判断として、「スパムではない」ということが否定されるような事実を見つけ出すことによって、「スパムである」ということが間接的に証明されたとする、というわけですね。

ふふふ。

ようやくここからが、この記事を書こうと思ったところです。

背理法的には、ある命題を直接証明することが無理そうな場合には、まず、証明したいこととは反対の、仮の命題を立てて、しかる後に、それだと矛盾が生じる、と導き出すことによって、はじめの命題を間接的に証明する、ということになります。

つまりですね。

これは言い換えると、「信頼する理由」でもある、というわけです。

こうしたことを、「疑っても疑っても疑いきれない」みたいに表現することもありますが、つまり、理性的な信仰とは、ごくかいつまんで言うとこういうことだというわけです。

それは、一般的に言う「信じる」というのとは、実は真逆だというわけですね。

だからこそ、本当の意味で「信じる」というのは、実はむしろ、積極的に疑うことを必要とする、というわけです。

ということは、通常の意味で言う「信じる」というのは、厳密に言うと「盲信する」ことだというわけですね。

だからこそ、うかつに盲信してしまうと、とんでもなく猛進してしまうわけです、というのはただのだじゃれです、すみませんm(_ _)m。

ま、これが、今朝、スパムメールを見て「うざいなあ」と感じた、その内実を展開してみた結果です。

なので、ま、「こんなにもあなたのことを疑うのは、本当はあなたのことを心から信じたいからなのよ」みたいな気持ちも、実はちゃんと背理法としての裏付けがあったのですねという、あー、なんか「ごちそうさま」なデザートまで付いてしまいましたが。

ではでは~

真の自己流

自己流を極めると、「真の自己流」に到達するわけですが、これ、「真の「自己流」」なのか、「「真の自己」流」なのかで、受け取り方が真逆になりますね。

つまり、この場合には結合法則は成立していないわけです。

(結合法則とは、「(a+b)+c = a+(b+c)」というものです)

この言葉の「真意」は申し上げず、あえて分析哲学風にのみ表現しましたので、読まれた方がこの言葉に投影した「マイ真意」を感じていただければと思います。

念のために言うと、この構造解明は私のオリジナルではなく、このことは実は高校の時に友人が教えてくれました。

ただし、彼は自分が私に何を教えたのかは、おそらく無自覚だったと思います。

楽しそうなイエス

「ガリラヤのイエシュー」(山浦玄嗣訳、イー・ピックス)より。

当該箇所は、マタイによる福音書、12.11 です。

もうね、この「ニッコリ笑って」という、訳者が挿入した一言は、自我が瞬時に崩壊するレベルの「破壊力」ですね。

この箇所を見るたびに、「だよねー」って、なんか笑いがこみ上げてきます。

このシーンの空気が一気に明るくなります。

この訳は、ケセン語(気仙沼の方言)、仙台弁、名古屋弁、京都弁、大阪弁、山口弁、長崎弁、鹿児島弁が取り混ぜて使われていて、当時のあの地域の、いろいろな出身や立場の人々がいた色合いを、そのようにして表現しているわけです。

上の写真だと、下の方に、「手を伸ばして」というところに「てエの」とルビが振ってあるのが写っていますが。

つまりここは、「てエのばして」と発音するわけです。

ま、百聞は一見に如かず、と思って、少し抜き書きしようかと思いましたが、大変なので、画像にて。

全編こんな調子で、いろいろな人が入り乱れてくると、あちこちの方言が飛び交う場面もあったりして、すごく面白いし生き生きとして親しみも感じられます。

イエスはおそらく、当時の「地元」の言葉であるアラム語で話したのではないかと言われていますし、エルサレムとかだといろいろな方言が実際に飛び交っていたでしょう。

なので、この訳から感じるイエスさんは、なんだかとても楽しそうなんですね。

福音書には、イエスが笑ったという記述がないというのは、よく言われることですが、いかにも楽しそうにしていたから、わざわざ書かなかったのかもですしね。

ただし、「喜びにあふれて」という記述はあります。

その時、イエスは聖霊によって喜びに溢れて言われた。(ルカによる福音書、10.21)

個人的には、聖書は、例えばこのように、現代日本人が読んでわかる翻訳にした方がいいのでは、と感じています。

ただし、当時の感覚でないとそもそも理解できないものはそのままにする必要はありますが。

もちろん、古い建築物は、長年風雪に耐えてきた風格がありますが、建設当時は新しかったわけですから。

言い換えると、聖書の文章に感じられるいかめしさは、長年の時間が作り出したものだともいえます。

昔の建築物を再建すると違和感があるのは、技術的なことよりも、経年変化が見られないからというのもありますし。

言い換えると、文字通りに訳した翻訳には、それと同時に、時間が経つにつれて変化したいろいろなことも同時に織り込まれてしまうということです。

これはどういうことか。

例えば、「そして、その町の病人を癒やし、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。」(ルカによる福音書、10.9)は、ギリシア語の福音書の文字通りの訳ですが、これに対応するヘブライ語だと、ここは「ここにある」という意味になるそうです。

つまり、神の国はここにある、ということですね。

彼の弟子たちが彼に言った、「どの日に御国は来るのでしょうか」。〈彼が言った〉、「それは、待ち望んでいるうちは来るものではない。『見よ、ここにある』、あるいは、『見よ、あそこにある』などとも言えない。そうではなくて、父の国は地上に拡がっている。そして、人々はそれを見ない」

トマスによる福音書、113

ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスはお答えになった。「神の国は、観察できるようなしかたでは来ない。『ここにある』とか、『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの中にあるからだ。」

ルカによる福音書、17.20-21

で、「あなたがたの中」とは、実は、自分から見た世界のことだったというわけです。

これは例えば、自分が、自分から見た世界、あるいは自分の記憶や思いなどについて話している様子は、相手から見るとどのように見えるか、を想像してみると、わかってくると思います。

「答え」を言うと、相手からは、自分が、自分の「心の中」について話しているように見える、というわけです。

わかってみると、「からくり」は実に単純だったというわけですね。

ま、いつもながらの尻切れトンボですが、この辺で切りますね。

ではでは~。

終わりの始まり

単なる山勘だが、9月15日頃で、一通りの「仕分け」が完了したようだ。

これは、「行き先」を最終的に自分で決めるプロセスが一通り完了したことを示している。

これは実は生まれる以前に既に決めていたものなのだが、ただし、人生の中で行き先を変更する選択の余地は与えられていた。

というより、人生というのはそもそも、「行き先変更」の選択をするためにある。

「選び直す」というのは、簡単なようで極めて困難であり、しかしその反面、極めて困難なようで実はとてもたやすい。

こうしたことは、この世界の言語による一面的な表現では、どうしても矛盾と逆説に満ちた表現になってしまう。

「仕分け」を簡単に言うと、例えば福音書にはこのような記述が見られる。

「その時、畑に二人の人がいれば、一人は取られ、一人は残される。二人の女が臼を挽いていれば、一人は取られ、一人は残される。」(マタイによる福音書、24.40-41)

こうしたことは、誰かが決めるのではなく、ただ自分が決めている。

「残される」人は、ただ自分で「居残る」ことを決めている。

この世界では、自己犠牲は「崇高な」ことだとされている。

おそらくその根底にある思想は、例えばこんな感じだろう。

「こんなにも自分にとって大切な自己をあえて犠牲にするという、最も「高い」こと、それは、まさに自分にとって最も大切なものをこそあえて放棄するという、尊い修行である」というように。

今の私には、もう、こうした発想はナンセンスだとしか感じられない。

さて、ここで話が飛んだようだけど、私の中ではつながっている。

つまり、あえて「居残る」ことを選んでいる人は、心の奥底で、「自己犠牲は「いい」ことだ」という信念に汚染されているのではないか、ということである。

もちろんだが、自己を犠牲にすることはできない。

なので、自己犠牲に邁進している人は、他の人から見て、とんでもない「闇の自己」を隠し持っているように見える。

あるいは、もっと心の奥底で自己を放棄してしまっている人は、「魂がない」ように見えたりもするのだろう。

これはつまり、文字通りの意味で「無我の境地」ということになるが。

本当に自分を大切にしている人は、逆に、自己を超越しているように見える。

なぜなら、自分が自分だと感じるものの中核は、自分ではなく自分を超えているからである。

話が飛んだ。

いずれにしても、やがていろいろなことが明らかになる。

言ってみれば、「最終調整」が終わったという感じである。

「後は野となれ山となれ」とは、赦すことで自然も回復するという意味でもあったのかもしれない。

(もちろんこれは、ただのネタです、はい)

プリンターのセットアップの不具合とその解決

以前、パソコンを修理に出したときに、必要があるかもしれないとのことで、OSが再インストールされて戻ってきた。

そして、いろいろとドライバーを入れ直したが、プリンターに関しては、ドライバーをインストールした状態のまま、印刷ができるかどうかをテストせずに放置していた。

そして先日、印刷しようとしたら、できない。

エラーメッセージを手がかりにいろいろと不具合の原因を調べたが、結局わからない。

ドライバーを再インストールしようとしたが、どうしてもプリンターとの接続がうまくいかない。

それで取扱説明書を出してきたら、ドライバーをインストールするだけではなく、セットアップが必要だと書かれていたので、メーカーの当該サイトにアクセスしてセットアップをするも、最終段階で、いつまでたっても終わらない。

40分待ってもセットアップが完了しないので諦めたり。

結局、いろいろと原因を調べてみて、それなりに対処を試みたが、うまくいかず、しかし、買い直すのも何だし。

そもそも、パソコンを修理に出すまでは正常に動作していたのだから、プリンターの方に問題があるのではない。

で、ぼうっと調べていたら、ふと、ウィルス対策ソフトが原因だったというような話を見つけた。

それはどうかなと思いつつ、そういえば、ウイルス対策だったか何かで、Windowsセキュリティーのアイコンのところにずっと警告マークが出ていたのを思い出した。

あれは関係ないだろうと勝手に思って、見ていなかったのだが、ここまでほかに原因が見当たらないのだから、見るだけ見てみようと思った。

そうしたら、警告が出ていたのは、「デバイス セキュリティ」のところの、「コア分離」という項目だった。

さらに進むと、コア分離の中の、「メモリ整合性」というところから警告が発していたが、ここがオフになっていて、これが何か問題があるようだった。

メモリ整合性というのは聞いたことがなかったので調べてみたら、アプリのインストールに影響が出ることがあるらしい。

というわけで、メモリ整合性をオンにした。

再起動を求められたので再起動、その後また、プリンターのセットアップをやり直したら、なんと今度は最後の段階もほぼ瞬時に完了し、テストプリントをする段階に移った。

信じられない思いでテストプリントをしたら、無事できた。

というわけで、プリンターは再び使えるようになったのだった。

正直、難関を突破したと感じたとき、少し泣けてさえきた。

で、何十分待ってもセットアップが完了しなかったときは、私は、ある種の「ふてくされ」の状態だった。

つまり、「あなたがこうしろと言うから言われたとおりにしたが、うまくいかなかった。どうしてくれるのか」みたいな気持ちである。

しかし、その状態では何も進展がなかった。

しかし、次は、「私は言われたとおりにしたのだから、私に非はない」という頑固さを外して、いろいろと原因を調べていたら、ウィルス対策ソフトという手がかりが目に入り、そこで、今まで試したことのなかった選択肢を試してみた。

つまり、今までの私は、セキュリティのアイコンに警告が出ていても、そのことを意識からシャットアウトしていたのだけど、ほかがだめだったのだから、だめもとでそこを確認してみようという気になった。

これは、私が自分だけで対処しようとしていたら、絶対に選ばなかった選択肢だったわけである。

そうしたら、まさにそこにこそ、解決の鍵があったのだった。

つまり、聖霊の働きとはこのようなことかと感じた。

自分では絶対に選ばないような選択肢にこそ解決の鍵があり、聖霊はまさにそれを提示するというか。

それは別に、声として聞こえる必要はなく、ただ、先入観を脇において、状況に対して心を開くことが必要のようだった。

プリンターのセットアップができないという状況に対して、それまでの私は被害者意識に凝り固まっていた。

元々、OSの再インストールも手違いで、修理の見積もりの時だったかに、再インストールしますかという問い合わせが来て、私は不要だと言ったのに、なぜか再インストールされて戻ってきた。

で、その時のやりとりをした記録に関しても、私が再インストールを依頼したと記録されている、ということを確認してもらった。

なので、オペレーターとのやりとりで行き違いがあったのだろう。

おそらくだが、オペレーターとの電話で私は、「再インストールは「なし」でお願いします」と、「なし」のところをかなり強く念押しをしたのだが、そのことが逆に、「お客さんがあれだけ強く念押しをしたのだから、再インストールをお願いしますと言っているのだろう」と、オペレーターの人は受け取ったのだろう。

大半の人は、実は言葉上の意味をあまり受け取っていず、相手の声の強さや声色や仕草や表情や話の流れなどを手がかりに、当人が言いたいことを自分なりに推測している、というようなことを聞いたことがあったが、それはこういうことかと感じた。

それはともかく、そうしたことを、その時は赦したと思っていたが、やはり、まだかなりくすぶっていたようで、そのために、プリンターのセットアップがうまくいかなかったときに被害者意識が発動して、積極的に対処する意欲がわかなかった。

だが、そのように被害者の立場に甘んじていたところで、損をするのは結局は自分だった。

そうしたことはわかっていたので、比較的余力のある時を見計らって、もう一度セットアップを試みたわけだが、そのことによって、今まで選んでこなかった選択肢に対して心を開くことができたというのは、確かにある。

だが、調子がいい時を見計らったこと自体がよかったわけではなく、この状況に対して自ら能動的に対処しようと選び直したことが、では、調子がいいときにもう一度試してみようという気持ちのきっかけになっている、というように、心の中で、自我ではなく聖霊を選ぼう、つまり、ただ自分だけでなんとかするのをやめよう、と決断したことが、そうした一連の行動のきっかけになっている。

自分なりに対処しようとだけしていたら、今でもプリンターは動かないままか、あるいは、プリンターを買い換えてはみたもののやっぱりだめだったとか、だったかもしれない。

で、プリンターを買い換えたとして、それでもだめだったであろうことは明白だけで、でも、買い換えることが無駄だとかいけないとかということではない。

そのことによって、問題はプリンターにあるのではない、ということが、疑いようもなく明らかになったとしたら、それはそれで必要だったのだから。

そして、問題は実は意外なところにある、ということも感じた。

プリンターのセットアップがうまくいかないという「問題」に関して、直接にわかることをいくら調べても、それらは真の問題ではなかった。

真の問題は、実は思いもよらないところにあった。

しかも、そのことはずっと意識に上っていながらも、なぜか自分ではずっとその可能性に対して蓋をし続けていた。

だからこそ、聖霊が必要となる。

例えばこうしたことを思った。

ここで記事を終えたら、なんか「きれいすぎる」印象になってしまうが、実のところ私は、いい学びをさせていただいて感謝します、とかでは全然なくて、えー、くっそー、とか、ブツブツ言いたい気分ですがw

ま、そんなもんです、はい。

ただいま(只今、唯今)

8月半ばぐらいから、いろいろと、より深部の問題が出てきたようで、非常に大変だった。

それまでの1年半ぐらいの積み重ねがいったん瓦解するほどの「揺さぶり」が、自分の内部から襲ってきたという感じだった。

ただし、それはいわば、大きな調整作用のようなもののようだった。

つまり、最終的に、頭脳中心から仙骨中心へと中心位置が移動することに伴い、意識の根底から刷新される、かなり大規模な調整が起きていたようだった。

いわば、精神的な「大震災」である。

例えてみれば、家の構築はそのままに、土台を移動させるようなものだった。

(ただし、水平移動ではないので、このたとえは不十分だが)

なので、従来の意味での自分は、ほぼなくなってしまったというぐらいの感覚がある。

もちろん、五感は普通だし、認識力にも特に問題はない。

ただ、今まであった、「自分」という意識感覚が、失せてしまったというか。

ただし、何か意識喪失状態になっているのではなく、むしろ以前より気楽になっている。

こうしてみると、「自分」という意識の感覚を維持しているのは、実はとても大変なことだったんだなあと感じる。

しかし、にもかかわらず、「自分」という感覚がなくなった方が、どうやら他の人からは、私が「いい」状態になったように見えるらしい。

実に興味深い逆説である。

ただし、問題が嘘のように解消されたわけではなく、むしろ、首などはリアルに四六時中ものすごい締め付け感があるし、背中や肩もひどい凝りがあり、また、緊張型頭痛もひどいが、これもまたいわば「頭の凝り」だし。

ほかにもいろいろと、数え上げれば切りがないほどの不調感がある。

ただ、全体的な気分は、今までに感じたことがないほどすっきりとして解放感もある。

すっきりしてはいるが、同時に絶望感や無力感もものすごいが(笑)。

いずれにせよ、鉄道の高架化工事で言えば、ようやく線路を高架線に移設した、という段階なのであろう。

今の気分を言ってみれば、個人としての人生はもう、事実上、終わった、という気分である。

なので、とてもすがすがしい。

「只今・唯今」のみがある感覚が、より普通になってきている。

余談だが、「ムカデのジレンマ」という有名な逸話がある。

https://en.wikipedia.org/wiki/The_Centipede%27s_Dilemma

(ブラウザに翻訳機能があれば読めます)

私はてっきり、これは禅の小話かと思っていたら、上のサイトを読んでみると、どうやらイギリスで、何人かの人によって広まり始めたようだ。

それはともかく、この寓話は、自分がどう歩いているのかを振り返ったら、足がもつれて歩けなくなったムカデ、ということだが、ほとんどの人はここで、「だから、とらわれないことが大切です」というような「結論」に持って行っているようである。

でさあ、とらわれないことが大切ですと言われて、はい、ごもっともですと、素直にとらわれなくなる人がいるかっちゅーの。

個人的に感じるのは、これは単に、とらわれがなかった状態がよかったというような話ではない。

私は、とらわれてしまったムカデの感覚になって、ではどうすればいいかと考えてみた。

だが、一度とらわれてしまったものは、もう、とらわれていなかった状態に戻ることはできない。

気づきというものは、広がることはあっても縮小することはないからである。

ムカデが自分自身に気づいてしまったら、もう、気づいていなかった状態に戻ることはできないのだ。

ではどうすればいいのか。

ここで、マインドフルネスなわけですよ(笑)。

つまり、自覚的に手足を動かすという方向性である。

当たり前だけど、はじめはぎこちないに決まっている。

だから、そこで受ける無数のバッシングは、ある意味、「しゃーない」。

ただ動き方が不自然だ、ぎこちないというだけで、そこに様々な「問題」があるとされる。

そらそうだろう、「自然な」状態からしたら、明らかに「不自然」なんだもん。

ごちゃごちゃ言うなら、あんたも一度、自分のことを振り返ってみやがれ。

日がな一日、自分のことが気になってしまうような状態になれば、誰だっていとも簡単にこうなるよ。

そうしたら、この気持ちがわかるだろう。

適当なことを言ってないで、あんたもやってみな。

それからならいくらでも話をしよう。

というぐらいのことである。

めげずに生きているうちに、やがて、動き方が「さまになって」くる。

普通はこれでも十分だとされる。

ただし、それはいわば、自分に「なりきって」いる状態である。

だが、「その先」がある。

それが、「自分」という感覚の消失である。

正確に言うと、「自分」と「自分以外」という対立感覚の消失というか。

歩き方を忘れたムカデは、一度完全に自意識にとらわれた後、自意識自体を脱ぎ捨てて、また自然に歩けるようになりました。

ただし、その時のムカデはもう、完全にすべてを自覚しながらも自然さを取り戻しましたとさ。

ずっと昔、まだ5ちゃんねるが2ちゃんねるだった頃だったと思うが、奇跡講座のスレッドに、奇跡講座の実践は、「innocence – sin – sinlessness」というプロセスをたどる、という書き込みがあった。

日本語だと「無垢 – 罪 – 無罪性」ということである。

この捉え方の出典は私は知らないが、ワプニック博士の解説なのか、あるいは、もしかすると書き込んだ人のオリジナルの理解だったのかもしれない。

ただ、この捉え方はとても印象に残った。

そして、先のムカデの話にしても、何も考えずに歩くことができていた段階は「innocence」であり、歩き方を考え出してわからなくなり、スムーズに歩けなくなってしまった段階は「sin」であり、そしてその次に、自覚しながら自然さを取り戻した段階が「sinlessness」である、というように対応している、と、私には感じられる。

言い換えると、sinlessness の段階に達することは、一見すると innocenec と同じような状態に戻ったかのようであるが、しかし、単に逆戻りしたのではなく、sin の状態を一通り味わってきた、つまり、「酸いも甘いも噛み分け」た上で、自分は本来、無罪(sinless)であったと思い出した状態のことである。

なので、「後退するように見えるが実際には前進する」(T-1.I.13:2)というのは、このように、意識覚醒あるいは意識進化とは、あたかも元の状態に戻っていくかのようであるが、それは実は前進しているのである、ということなのであろう。

このことを、田坂広志という人は、「「未来進化」と「原点回帰」は、同時に起こる」(『使える弁証法』、田坂広志著、東洋経済、p.52)として、端的に表現している。

言い換えると、未来進化と原点回帰は、実は、同じプロセスを異なる側面から捉えたものである、ということができる。

つまり、人類がこれから目指す境地は、実は既に過去何度も達成された境地である、という言い方も可能であろう。

ただし、その度に、「今後の課題」ができあがってきた訳なのだろうけど。

そして、今までいろいろとうまくいかなかった理由は、どうやら、「「自己側」と「他者側」という空間の存在論的差異」が、今までは全く見えていなかったことによるようだ、ということがわかってきた。

このことが、理屈ではなく感覚としてわかってくると、諸問題が面白いようにするすると解けていく。

ただしこれは私のオリジナルではなく、『シリウス革命』、半田広宣著、たま出版、p.228 – 230 で、オコツト(OCOT)からの情報として言及されている。

「オコツトは、この概念を人間が正確に理解すれば、覚醒が起こり、宇宙のナゾのほとんどは簡単に解けていくことになるだろうといった」(p.230)

「この概念」とは、「円心(えんしん)」と「反環(はんかん)」のことである。

ただし、この記事ではそこまで言及するのは長くなりすぎるので、いずれ機会があれば。

最後にダジャレで締めますと、「帰還者富ーます」は「きかんしゃトーマス」よろしく、日々人々を楽しませつつ地味に文明を牽引しているわけですね。

はい、覚醒するとわかってきますが、実は、人知れず覚醒した人は実は結構いて、そうした人が、革新的・独創的な仕事をしたりしていた、つまり文明を牽引していた、ということが、だんだんわかってきますから。

ま、十牛図で言う、最後の「入鄽垂手(にってんすいしゅ)」の段階に入った人は、それこそ本当に「ただの人」として生きていたので、そんなところにいるとは全く見えないのでしょうね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E7%89%9B%E5%9B%B3

ついでながら、9番目の「返本還源(へんぽんかんげん/へんぽんげんげん)」の段階は、奇跡講座で言えば、「実相世界への到達」になるかと思います。

さらにここに、ちょっと「スパイス」を加えるならば、実は、自分にとっての相手が「入鄽垂手(にってんすいしゅ)」の段階にいるかどうかを決めているのは、実は自分だったという、これまた、逆説に次ぐ逆説があるわけで。

(cf. 「彼の心の中に居る聖霊を通して彼を見なさい。そうすれば、あなたは自分の心の中に聖霊を認識する」(T-5.III.3:4))

言い換えると、人は実は「入鄽垂手(にってんすいしゅ)」の段階から一度たりとも離れたことがないのですが、ただ、自分はどうやら自分を見失ってしまったようだとして、いったん内的な迷いの道に入り込み、そして、十牛図の段階を内的に一通りたどって、そんなものは実はなかったとわかって戻ってくる、というように見えるわけですね。

で、これが、先の「innocence – sin – sinlessness」のプロセスを、他者側からとらえた様子になります。

ま、きりがないので、この辺にしておきます。

加藤智大著、『解』、p.12-13を読んで

「解」、p.12-13の、会社を辞めたいきさつに関して。

まず、加藤は「上司のさらに上司に退職願を提出することで意志(ママ)表示した」わけだが、それが通じなかったことで、「事務所に放火したうえで消火栓からホースを引いてきて放水し、少し痛い目に遭ってもらうことで間違った考え方を改めさせる」ことが思い浮かんだという。

まず、上司ではなく、上司のさらに上司に退職願を提出したことからは、加藤は、相手に直接訴えたのでは自分の意志が伝わらない、と感じていたことがうかがわれる。

それが通じなかった理由は、上司の上司には、彼が退職したいとする理由が理解できなかったのかもしれないし、ここではそれに関する言及がなかったのでなんとも言えない。

もちろん、「それが通じなかった」という「それ」とは、彼なりの意志表示のことだけど、この辺りの文章を読んだ手応えとしては、彼は、退職願を出すことで、何か別のことを訴えたかったような印象がある。

例えば、放火するアイデアのところで、彼は、「間違った考え方を改めさせる」目的があったと書いている。

彼にとっては、上司の考え方は間違っている、と感じられていた、ということであろう。

そして、おそらく、退職願を提出するということを通して彼が訴えたかった何かは、会社には伝わらなかった。

つまり、「あなた方の考え方は間違っている」という彼の訴えは伝わらなかった、ということなのかもしれない。

ということは、もしかすると彼は、自分が退職願を退出すれば、会社側は「考え方が間違っていた」と感じるだろう、と思ってのことだったのだろうか。

確かに、雇用契約においては、上司の力や権限は圧倒的なので、雇われている身としては、ストライキを起こすとかデモに参加するか、あるいは退職願を提出するというぐらいしか、意思表示の機会がないのかもしれない。

つまり、本当に退職がしたかったというより、上司に考え方を改めてもらうことで、実は会社に踏みとどまりたかったのかもしれない。

これはあくまでも、なんとなく感じたことなので、実際のことはわからないが。

そして、退職願が通じなかったことにより、彼の中に思い浮かんだのは、「事務所に放火したうえで消火栓からホースを引いてきて放水し、少し痛い目に遭ってもらう」ことだったわけだが、この事柄自体の是非ではなく、突如としてこのぐらいの大がかりな行動に出る必要性を感じた、というところにも、加藤の特徴が感じられる。

まず、放火してさらに放水する、ということは、いわゆる「マッチポンプ」を思わせるが、それだけではなく、そもそも、放火する必要を感じたということ、つまり、放火でもしなければ彼の訴えは耳を傾けてもらえない、というぐらい、規模が重大なものととして彼には感じられていた、ということが大切である。

しかも、そのことを彼は「少し痛い目に遭ってもらう」と表現している。

つまり、事務所に放火され、しかも同一人物が放水した、という出来事は、会社にとっては「少し痛い目に遭った」という程度のものだろう、と彼は予測していた、ということである。

こうしたことは、「常識」をベースにするとわかりやすい。

つまり、常識的な感覚であれば、自分の訴えが聞いてもらえなかったからといって、いきなり放火を考える? というところが、すでにピンとこないのだろう。

だけど、放火するぐらいに強く訴えても、相手にとっては「少し痛い目に遭う」程度のことでしかない、と彼には感じられていた。

つまり、彼は実のところ、自分の訴えを聞いてもらうには放火程度では全然足りない、と感じていたのかもしれないとすら思われる。

言い換えるとこれは、いかに彼が自分のことを「取るに足りない」人間だと感じていたか、ということを思わせる。

だから、放火ぐらいのことをしないと彼の訴えはそもそも届かない、と感じられていたのだろう。

で、この「放火と放水」のアイデアは実行に移さなかった、というのは、「よくしてくれる先輩や目をかけてくれる上司」には、彼は迷惑をかけたくないと感じて思いとどまったと彼は書いている。

ということは、自分が放火を思いとどまったのは、放火という事柄自体の是非ではなく、自分が事務所に放火したら、自分によくしてくれた人々に迷惑がかかる、という理由からである、と彼自身は自分のことを捉えている、ということなのだろう。

ここでは、彼の儀礼深さあるいは礼儀正しさが感じられる、とも言えるが。

そして、そのときの彼の職場よりもずっといい条件での期間工の求人広告を見つけたことにより、彼は転職を理由にして会社を辞めたと書いている。

しかし、本当は、どうやら、「出勤してはトラブル相手の上司と顔を合わせてもやもやしているものを、トラブルごと自分から切り落としてしまうため」だそうである。

ここからわかることは、彼は別に会社を辞めたかったわけではなく、ただ、トラブル相手の上司と顔を合わせてもやもやするという状況を「自分から切り落とす」ためだったようだ。

なので、もしかすると、上司が彼の言う「間違った考え方を改めて」くれたのであれば、彼はその会社にとどまったのかもしれなかった。

ただ、こうしたこと自体よりも大きいのは、転職の理由として、雇用条件よりも、会社での人間関係を断ち切りたいということが、彼の中ではより比重の大きいこととして捉えられていた、ということである。

そして最後に、こうしたこと全体を読み取ることができる、彼のある種の文才を感じた、ということを申し添えておく。